我々の人生に死はない、死について考える:思想家コラムその10


私たちの人生に「死」はありません。

もっと厳密に言うと、私たちの人生に「他人の死はありますが、自分の死はありません」。

これはどういうことかと言うと、自分の死は自分では認知できません。

たまに死ぬのが怖いと言う人がいますが、安心して下さい。

自分が今死んだと自分では認識できないので、認識できないものを恐れる必要はありません。

それなので私たちの人生にあるのは他人の死だけです。

歳をとって、老化して、病気の痛みで苦しんで、そういったことが・・・と言われるかもしれませんが、それは死とは別の話です。

釈迦は人の苦しみは「生、老、病、死」の4つがあると言いました。

つまり別なんですね。

おそらく多くの人は、他人が死んだのを見てああはなりたくないと言っているんだと思います。

自動車免許の更新の時にある程度の年齢以上になると痴呆症の検査があるそうです。

ある方がそれに行って「あなた認知症ですよ」って言われたら「嫌だな」と言っていました。

僕が「大丈夫ですよ。もし本当に認知症になっていたら認知症ですよって言われたこと自体認知できないので大丈夫です。」と言ったら。笑っていました。

自分の死もそんな感じだと思います。



ここからは他人の死の話をします。

今年、僕の知っている方が3人亡くなりました。

正直他人の死は自分の中からなかなか消えないです。

僕の場合、悲しみとかではなく「もっと彼らに対して生きている間に何か出来たのでは?」という疑問というか後悔というか残念さです。

その疑問を今でも毎日思ってしまっています。

そうすると、一期一会の中で出会う、今生きている人たちに何ができるのかな?という疑問に多少変わってきます。

誰しも死があるから生に思考が転換していくのだと思います。

そんなことを思っている中で、「生と死」について、次の作品を一つ作りたいなと考えています。

そもそも他人の死と自分の死と二つが存在しているのか?という疑問もあります。

死神と言う言葉がありますが

これは悪い言葉ではなく

死を教えてくれる神様のことだと

僕は思っています。

こうやってたまに死の神様が

いろいろ教えてくれるので

ありがたいなと思います。

友人が

15年位前に30代半ばで

白血病で亡くなりました。

僕もお葬式に行って顔を見させてもらいましたが

その時に

彼は僕なんだなと思いました。

当たり前ですが、その時泣いている人がたくさんいましたが

僕は全く泣けませんでした。

なぜかと言ったらこれは僕自身のことであり

彼は僕であり

全くもって人ごとではない

と感じたからです。

人事ではないので

全く泣けませんでした。

これは大事だ。何をしたらいいかわからないけど、何とかしないといけないという驚きとショックでした。

自分の葬式に、幽霊となって自分が参加している。そんな気持ちでした。

このことをたまに思い出します。

今日もそのことを思い出しました。

ありがとう。

他人の死と自分の死と二つが存在しているのか?という話でした。


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